昭和46年07月29日 朝の御理解
御神訓一、「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ。」
信心を頂いて、初めて実感するものですね。本当に、信心のなかった時代のこと、これは自分自身、又は信心の無い人達の姿。本当に様々な難儀の様相と云うものを見るに付け聞くに付けて、ここに信心があったらばなぁと思う様なことがあります。それこそ神様ならずとも、本当に気の毒だなぁと言う、いわゆる哀れを催す事があります。ところが、神の教えも分かり、真の道もこういう事だと知りながら、それを行じようともしない、表そうともしないなら、これは私は、悲しいことだと思うですね。
真の道におりながら真の道を踏まぬことと、御神戎下さってあります。親がいないと言うことは、哀れであります。親があっても、不孝をするなら、それは悲しいことであります。お互い、信心をさせて頂いておって、その悲しい部類に入っちゃならんですね。本当に真の道を分からせて頂いたら、真の道を踏んで行くことこそ真の人であります。神の教えを頂いたならば、その神の教えを本気で頂かせて貰う、行じさせて貰う。生活の上に表させて貰うて初めて、教えがものを云うのです。
ですから、ほんなら信心を頂いておる、神の教えも頂いておる、真の道を知っておると云う人が、それを行じる事も、表すことも致しませんなら、それは本当に悲しいことであります。そういう悲しい人がどの位おるか分かりませんね。信心をさせて頂いている者の中に。だから、真のおかげになっても表れてこない訳です。昨日は竹葉会でございました。若いお嫁さん達ばかり集まって、共励をさせて貰います。
その中で色々お話をさせて頂いたんですけども、修養とか道徳とかと云うのと、信心と云うのはよく似ている様で本質的に違うと云うことです。成程お互いが信心によって修養させて頂いておりますけれども。それはどこまでも信心を修めて養うて行くということなんです。普通道徳的に云う修養とは大変違う。だから道徳的なという事になるとですね、返って人間が人間らしゅう生きて行けないような事になって来る。
春がきたなら花が咲く。花が咲くことに何のためらいがあろうか。秋が来れば、いわゆる紅葉する。真っ赤になる。紅葉が色づく。そのことが何の恥ずかしい事であろうか。例えば道徳とか、道徳をもって修養しておると云うことになると、その辺のところでも、それを人間らしくない生き方をもって道徳とする様な考え方がありますね。そしてどういう事になるかと言うと、一生を清貧に甘んずると云った様なこと。こんな馬鹿気た話は有りません。それが人間らしい生き方だとこう言う。
私は本当に、真の道を知らなければ、本当の意味に於いての、人間に生を受けて来た、いわゆる人間の謳歌とでも申しましょうか。人間に生まれてきた事を楽しませて貰い、人間に生まれて来たことを有難いと思うて生活する生活を、信心生活です。ですから、信心生活とは、赤裸々です。赤裸々であったりすると、それは道徳的ではないといったような事にまでなる場合があります。
だから道徳とか修養とかと言うのと、信心、いわゆる真の道を行じて行くという事とは本質的に違う。そこんところを真の道を歩かせて貰い、修養させて貰う。真の道を修めて行く。真の道を、いよいよ養うて行くという様な生き方になる。それには人間の幸せに必須なもの、条件とでも申しましょうか。必須条件、それが足ろうて行くのである。それが信心。道徳的とか道徳とかと言うのはそうじゃない。なかなか人間が出来た人、真面目な人、なかなか道徳的な人。
ですからしいて云うなら信心とは、超道徳とでも申しましょうか。道徳を越えたものなのです。そういう道を教えて頂くのが信心です。正直で真面目で、忠実な生き方をしておる。道徳的な生き方をしておる。そして正直者が馬鹿を見ると云う一生で終る。いわゆる、清貧に甘んじた人という様な風に申します。そんな馬鹿気た話はないですよね。おかげを受けようと思えば、世の中には金なら金、物なら物、人間の幸福にならせて頂くための一切全てが、天地の中にある、包含されてある。
それを頂く糸口をです、信心と云うのは、私は教えるんだと思う。お道の信心はそだと思う。ですから、教えを頂き、真の道を行じさせて頂くところから、真のおかげ、いわゆる真のおかげ、人間の幸福に必要な一切すべてのものが与えられている。信心の喜びと、いわゆる歓喜に満ちた生活が出来る訳であります。あの終戦直後の険しい時代、遅配欠配の時代に、いわゆる道徳的な、ある学者が。
非常に真面目で、決して闇なんかのものは食べない、口にしないと云い張って、そしてかつれて、栄養失調で亡くなったと云う話がありますね。道徳とはそんなもんですよ。金光様の信心をさせて頂いて、初めてその辺のところが分かる。そこで信心のある者とない者との違いがはっきりして来る訳です。けれども信心があっても、只今申します様に、神の教えを聞いておっても、真の道を知っておっても、それを行じようともしなければ、表そうともしないならば、これは実に悲しい事だと。
昨日、丁度、竹葉会が、もう始まっておりました。私は控えで、お客さん受けておりましたから、秋永先生達夫婦も来ておりました。あそこへ四、五人で控えで、信心の四方山話をさせて頂いておる時に、御礼参拝をして来た。鳥栖の上野さんが、昨日手術がございました。もう随分前から医者は胃癌が一杯に広がっているから、一日も早う手術をしなければいけないと。で、私の方の病院で出来んから、医大の良い先生を紹介するからと言われるけれども。本人には胃潰瘍、夫婦の者に子供達が言わなかった。
子供が呼ばれましてね、実は今日胃潰瘍でお父さんとお母さんに、帰って貰ったけれども、実は胃癌でしかももう一杯に広がっている。だから私の手ではどうにも負えない。だから医大で、切開手術を受けることを言われたから、まぁお母さんにだけは、その事を話させて貰った。そこで本人に入院を進め、本人に手術を言うけれども、本人は絶対にいやち言う。俺はまだ経理士の試験も受けにゃならん。仕事の方もまだつかえとる。そして胃潰瘍と言われたから、安心してから翌る日から勤めに行くち言う。
どげん言うても聞かん。それで先生、本当に胃癌で、医者にも薬にも頼らずにおかげを受けたと云う例も、ここで幾らもあるから、私共も、そういうおかげを頂きたいから、主人がそう申しますから、どうぞおかげを頂かせて下さいと云うて何回もお願いした。けれども私は、絶対、それはいかん。絶対に手術させなさい。絶対手術すること。手術をしておかげを頂きなさい。それで子供達、遠方に行ってる子供達も、みんな集まって話し合いましてね、もうそれこそ、強引に病院に連れて行きました。
本人が納得せんのを無理に納得させて、昨日手術と云うことになりました。おかげで二時間半余りでその手術が済んだ。そしてその後の事をお礼に家族中で兄弟の方達までが一緒に、お礼に出て見えました。それで私はあちらに控えておりましたら、そこで長男の勝之さんが、こういうお届をするのです。親先生おかげを頂きまして手術も無事に、二時間半で済みました。開けて見ましたところが、おかげを頂いて走っておる筈のそれが走っておりませんでしたから、綺麗に取る事が出来ましたと言うのです。
皆さんどういう風に頂かれますか。私は、この辺のところがね、教えを本当に分かっとらんと、悲しいと思いますね。そして私が申しました。勝之さん、そういう事じゃ後のおかげが頂かれんよと。親先生、○○病院に行った時には、胃カメラも呑む、レントゲンもかかって、あの様に胃はいっぱいに散らばってるから、広がっているからと云うたじゃないかと。それが時間をかけさせて頂いとる間に、神様がそれこそ一ところに纏めてござる様に集めて下さった様に一ところに固まって しもうておった
。と云うのが事実じゃろうが。だから手術をした医者すらが、びっくりしておろうが。こんな筈じゃなかったと云う程に散らかっとらなかったと云う。私も、散らかっとったけれども、神様のおかげで、ここに纏めて頂いておった。だからそこをごっそり、いわば幹三郎が肉腫と言われたのを、私が金光様が内腫と仰ったから、内腫に決めきっておったら、本当に内腫なんて病気はありませんよね。病気のないような病気に変わって仕舞っておったと云う事実をね。
あんたどん、ついこの頃のことを知っとろうが、そういう事ではね、後のおかげが思いやられるぞと、私が申しました。これは本当にもうおかげを頂く機微です。例えば四神様は、一つのおかげを頂いたら、五つも頂いた様にお礼を申し上げる。五つのおかげを頂いたと思うたら、十のお礼を申し上げ、そこには十のおかげが待っておるという意味の事を仰っておられます。実際はね、五つと思うて、十のお礼を申し上げても、実を云うたら十、二十ではないのです、おかげ受けておるのは。
おかげとして見えておるところは氷山の一角なんです。だから私が医者にかかったり、薬を飲んだりしておかげを頂くのは、私が好かんち言うのはそれです。皆の信心が出来とらんから、あぁあっちの医者は上手っじゃった。薬がよう効いたと云うてから、神様のおかげを小さいものにして仕舞う。そうして次におかげまで小さくして仕舞う。だから、どんなに大きゅうオーバーと思える位におかげを頂いたと云うても、まだ足りない位じゃ。ここはねおかげを頂いて行くこつであり、そう言う所の教えがね。
本当に分かっておらんと、おかげを小さいものにして仕舞います。開けて見たらおかげで散らかっとらん。しかも一ところに纏まってしまったから、がっさりと、その癌のところだけは取れたと云うのである。これは皆さんでも同じですよ。神様がもう何遍、普通だったらですね、普通だったら医者にはかからんと、覚悟を決めました。薬は飲まんと決めました。どうぞお取次を願いますと云うたら、神様は、ある意味で喜んで、そんならしっかり願わんのと云うて下さるのが普通ですよね、ここでは。
ところがなんべん、その事をお願いに行きましてもですね、いわばお許しを頂かなかったと。それはもちろん、主人になる人のがんことでも申しましょうかね。が、胃癌と思うてないものだから、まだ別に、痛い痒いも感じんのじゃから、まだ仕事も出来るからと云うて、強引に病院には行こうとしなかった、からでもありましょうけれども、絶対病院に行かなかった。何回お願いに行っても、手術をすることを、手術をしておかげを受けりゃよかろうがと云う事でした。
この辺のところは、本当に教えが身に付いていないと、お互い悲しい結果になります。信心はしておっても、教えがそういう意味の教えなら、ここでどのくらい頂いとるか分からん。けれども実際自分の場合になると、教えは一つも生きていない。真の道を踏むと云うても、信心はせんでも、正直でまっとうにさえいきよれば、それを如何にも真の道のように思う。決してそんなこっちゃない。
信心の世界には普通から見たら、それは真の道じゃないかの様に見える様な事の中にでも、ちゃんと真の道ははっきり頂けるものである。真の道を知る私は昨日大変ほんのちょっと耳に挟んだだけでしたけれど、嬉しいなあと思うて今日神様にお礼を申し上げた。出来る出来ぬは別として。昨日は竹葉会の中でどなたでしたか、久留米の久留米支部の共励会のとこで、秋永先生が今度の本部入殿の話をなさったのでしょう。
そして最後に言っておることが、私はね今のこの合楽の信心を、全国の教会を回って話をして廻りたいち言うたという話しを聞いてね、嬉しい事だなぁと思うた。お互いがねその位の衝動を感じる位のものを、合楽には内臓しているのです。持っているですそれがたまたま今度本部に参らせて頂いて、合楽の話をさせて頂いて、それこそ初めから最後まで、合楽合楽という合楽の信心ムードで終ったとこう云う。そのいわば中心をなしたものはね、合楽では全ての事が御事柄として大事にして行くと云うこと。
これを聞かれて、東京の中村錦之助一門が御縁を頂いておると云う教会の先生が、もう八十からなられるそうですがね。その御事柄という事の言葉の素晴らしいこと、その内容の素晴らしいこと、これが、何時の場合でも中心になったそうです。如何に神様を敬うと云うても、尊ぶと云うても、神様の御働きそのものを、お粗末にする様なことでは、私は真の道に反れると思うね。
私の上に表れて来る、それは痛い事かも知れん、苦い事かも知れん。嫌な事かも知れん、恥ずかしい事かも知れん。けどもその事を、神様の御事柄として、合掌して受けて行くと云う生き方を合楽では徹底して、信者がそこんところの修養、いわばそれを修めることの修行を一生懸命させて頂いておるということがです、初めの間は、色々、まぁ抵抗もあったらしいけれども、一番長とも思われる八十にもなるお爺さんの先生がです。何と素晴らしい事かと言うて、その事を説明されたから。
皆がその気になっってしまったと云うのである。これはいわば合楽では二十何年間言い続けて来ておる事ですね。成行きを尊ぶ。自然の働きそのものを、神様の働きとして頂くと云うことなんです。私はねこの真の道とか、真の信心とか云うのは、まずここに絞って間違いないと思うんです。だからそういう道を習い、教えて貰っておってもですよ、それを皆さんが行じないなら悲しいことです。この事だけはそんな訳には行かん。そこに頂いた力までまた元に戻して仕舞う様な結果になる。
信心とは徹し抜くこと。そこを頂き抜く事。神の教えを真の道を知らぬ人の哀れさと教えておられるが、御神訓下さってあるけど、神の教えを知りながら、真の道も知りながら、それを行の上にも現わそうとも、踏み行うともしないならば、それは悲しいことだという事を、今日は、皆さんに聞いて頂いたですね。本当に教えを頂いとらんとです。例えばそれこそ千も万ものおかげを頂いておってもです、それを小さいものにして仕舞う。そして次のおかげを小さくして仕舞う。
私共の感じでです、ああ十のおかげを頂いたと思う時には、絶対百のおかげを以って、実感として御禮を申し上げねばいかん。それでたっちゃまだ足らん本当言うたら。神様の働きを感じないと云うことは、神様もこの様に寂しい悲しい思いをなさることはなかろうと思う。神様の手の混んだ、例えてこれをまあ云うならば、胃癌がいっぱいに広がっておったのをです、神様の不思議な不思議な力と働きをもって、一ところに集めて下さる様な働きを、神様がして下さったと致します。
それを先生、開けて見ましたら、入っちゃおりませんでしたと言うならば、神様のおかげは、みんな空しうなって仕舞うじゃないか。そうすると手術をした先生、病院の先生だけがよかったと云うことになるじゃないか。それをおかげという様なおかげじゃ駄目だと。その神様のです、その癌を一ところに、これなら人間でも取ることが出来ると云うところまで縮めてござる、そこに固めてしもうてござると言う働きそのものも、おかげと分からせて貰う信心にならなきゃ駄目。
是はその事だけではない。一事が万事そうなんだ。日常生活に於てもしかりなんだ。そこで私は、昨日申しました。信心とはどれだけ深く広く、神様のおかげを探知するか、神様のおかげを分からせて頂くかという事にあるのだと、そこに私は秋永先生に、そこんところが皆さんと私の思いと、信心が違うところはそこんところだけだと。私は、秋永先生に話したら。先生、本当にそうですねて言っておりました。
皆さん方と同じ事柄を、十のおかげとしか思うとらんのに、私は百も千もの思いで、おかげと思うておるですもん。そこが違うだけ。だから、私の場合はおかげが大きくなって行くのだ。実を云うたらまだ足りんのだ。けれどもそれが、実感が伴うての有難いであり、おかげでなからなければいけないところに、信心の、いわば修養です。信心を修め養って行かなければ、そこのところが実感として、有難いものになって、出て来ていないということなんです。
「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ。」なるほど、本当に哀れを催す様なことが沢山ありますね。ここに信心があったなら、お取次頂いておかげ頂かっしゃったらよかろうと、そういう程度に思いますね。ところが信心を頂いておっても、教えを頂いておっても、真の道はこういう道だと教えて頂き、分かっておっても、それを踏みみ行うとも、教えを行じようともしないなら、それは本当に悲しいことなのだ。
そこのところを現わし、そこんところを頂いて、そして真の道を行く人を真の人と云うなら、その真の人の上には、真のおかげが受けられる。絶対に清貧に甘んずるという様なことはない。お道の信心頂いておっても、ああよか信心が出来てござると云うても。けども、こういうことは云えますね。昨日の御理解でしたね、信心をさせて貰うておかげを受ける。いわゆるおかげの世界の有難さが分かったら。
次には徳の世界に足を踏み入れる。あの様におかげ頂いておったのに、最近はおかげらしいおかげではなくて、徳の世界に入って行くと、いわば信心が有難いと云うことになる。そういう過程はあります。けれども、そこを頂き抜いて、それが徳になり、それが一つの固定した徳になったらです、神様は、それこそすさまじい迄の働きをもって、人間の幸せの為に一切のおかげをお許し下さる。
ですからね、一生あちらは清貧に甘んじてござったという様なお道の先生やら、信者があってよかろう筈がない。もしあるとするなら、その人は、いわば超道徳と云うものではなくて、只道徳的な信心をしござったと云うより他になし、又、真の道を知っておっても、教えを聞いておっても、その教えを、あなたは行じておられなかったのですねと云うより他にないのです。
そこのところのです、証を立てて行かなきゃいかん。実証して行かにゃいかん。真の道を歩かせて頂き、教えを行じさせて頂いたら、こういうおかげが受けられると言うね、私は実証をして行きながら、信心をいよいよ確かなものに、又信心の薄い人ない人に対して、それを証としてです、お話をして行く様なおかげを頂くと云うことがです、真の道を踏んで行くと言うことになるのじゃないでしょうかね。
どうぞ。